ワタナベ マサユキ
  渡辺 雅之   文学部 教育学科   特任教授
■ 標題
  「特別の教科 道徳」の背景と問題点-実践的観点からの批判と考察-
■ 概要
  小学校では2018年、中学校では2019年から「特別の教科 道徳」の実施が決定した。しかし、道徳の教科化の背景とその推進理由には様々な問題がある。もっとも大きな問題は「教科化が先にあり、理由が後付けにすぎない」ということであり、その決め方も学際的根拠を元にした教育的議論や国民的合意をふまえたものとは言えず、徹底して批判していく必要がある。しかし、「我が子に思いやりのある子どもに育ってほしい」など、親の願いは当然のものであり、道徳性を育む教育活動自体は大切にする必要がある。とは言うもののそれは道徳とはなにか、それを育むとはどういうことかを常に問いなおす営みの中で行わなわなければならない。よって本論は、本来の意味での道徳教育とは何かということを常に問いながら論じた。

まず、1章「教科化の背景」において、教育再生実行会議の提言や学習指導要領などを読みひらく中で、教科化推進理由の妥当性について検証した。そして、教科化がなぜ目的化されているか、新自由主義の席巻や右傾化など政治的かつ社会状況を視野にいれた考察を試みた。

 第2章では「特別の教科 道徳」が内包する問題点を、おもに「心理主義」「徳目主義」「偏狭なナショナリズム」「家父長制とパターナリズム」「多文化共生」をキー概念として整理した。考察の主な資料として「心のノート」「私たちの道徳」など、現場で使用されているものを中心に、できるだけ実践的な批判を行った。

 第3章は「評価に関する諸問題」は、道徳科が学校現場に与えるであろう具体的な影響について、おもに評価問題に焦点をあてて考察した。そもそも、人間の内面を評価することは極めて困難である。ここではおもに評価とは何か、その教育的意味や道徳科の評価が実施された場合、どういう影響を与えるかについて、評価される子どもと評価する教師、双方に視点をあてて論じた。

 「おわりに」では、道徳教育のベクトルを子ども(内面)にだけ向けることの矛盾について考察し、本来そのベクトルは大人と社会に向けられるものであることを論じた。そして道徳性の教育の本質は社会に「参加」する権利主体としての子どもを育てることであることを明らかにした。そもそも、教育の目的は「平和的な国家及び社会の形成者(教育基本法第1条)」を育てることであり、エンパワメントEmpowermentをその本質とする 。
その文脈で考えれば、道徳教育とは「教室と世界はつながっていること」を知り、「自分たちの手で社会(世界)を変えることが出来るという実感と見通し」を持つための教育活動である。言い換えればそれは、主権者教育であり、シティズンシップ教育であり、平和教育であり、人権教育であり、多文化共生教育であり、持続可能な開発のための教育-ESDであり、地球市民のための教育である。元々「子どもは幸せに生きる権利主体(三上, 2014)」であり、道徳性の教育とはそれを保障し、エンパワメントするものであると結論づけた。

  単著   星槎大学大学院教育研究科教育学専攻修士論文集   星槎大学大学院教育研究科      2016/07


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