オオスギ ユカ
  大杉 由香   スポーツ・健康科学部 スポーツ科学科   教授
■ 標題
  「明治期における棄児・幼弱者 たちの処遇と救済の実態」
■ 概要
  日本における近代化は、前近代に存在した社会的相互扶助関係を弛緩させ、家族による自助努力を強要したが、仮にそれが不可能であっても公的扶助に頼ることは困難であった。それは1874年に成立した恤救規則が排貧主義を貫き、救済権も国による救済義務も認めていなかったためで、その背後には広範に残っていた農村社会の存在と人々の生活を犠牲にしたうえでの産業化・軍事化の推進があった。
 他方で多産多死型の当時の日本社会では、社会的養護の対象として最も注視されたのは家族による養護が難しい子どもたちの存在であった。それ故に近代日本ではキリスト教系団体を中心に私的な施設福祉が孤児院をはじめ、児童救済を軸に展開され始めたが、そこには明治三陸海嘯等の災害、経済不況、日露戦争等が影響していた。ただ施設福祉の多くは大都市近辺に集中する傾向があったため、そのことで遺児等は出身地からこれらの地域へと移動を余儀なくされることとなった。
 さらに東京とそれ以外の地方では施設のみならず、児童救済の金額にも大きな差があり、特に東京の場合、棄児養育米給与方(国費)に加算した地方費の手厚さが顕著であった。ところがそれに対し、東京以外の全国では地方費補助が貧弱であったうえ、金額の低い恤救規則による救済が行われることも少なくなく、いわば東京とそれ以外の救済格差は当時の子どもたちから見ても判るほど、歴然としたものであった。
 なお、従来の先行研究では、棄児養育米給与方と恤救規則の相違について、さほど注意が払われてこなかったが、前者だけでは最低生活以下の補助とは言え、それでも後者よりはやや金銭的に優遇されたと見られる一方、後者は成人であっても、児童並の支給に留まったケースが多々あったことを本稿では明らかにした。

  単著   環境創造   大東文化大学環境創造学会   (27),53-86頁   2021/03


Copyright(C) 2011 Daito Bunka University, All rights reserved.